こんにちは。
二タ見宇兎丸です。
自分で言うのもおかしいですが、様々な生きづらさを抱えている僕は、
仕事が沢山あっても少なめでも、集中して作業に取り組めても取り組めなくても、
なかなか困りごとがあります。
日々、困りごととのモグラ叩き状態です。
例えば、集中できないと困る平日は「コンサータ」というADHDの治療薬を服用しています。
一方、休日は主治医と相談した服薬の仕方に従って休薬しています。
僕の場合、休薬日は猛烈に眠くなり、ほぼ一日寝て過ごしてしまうこともあります。
コンサータを飲んでいる日でも、他に飲んでいる薬を忘れてしまったり、
単純に体調が悪かったりして、どうにも集中しきれないことも少なくありません。
そんな時は最低限の仕事をなんとか片付けて、あとは無理せず……というスタンスを心がけています。
体や脳の作りが多数派と違うなら、自分に合う働き方も多少違ってくるのでしょう。
職場の人や、ひいては社会の人が分かってくれるかは分かりませんが、
のらりくらりと視線をかわしつつ、時には後ろ指を指されつつ、ひっそりと生きています。
さて。
多数派の人々の世界を避け、音楽準備室に籠りながら、
最低限の仕事を終えた後の時間を過ごしていると生じる困りごとがあります。
爪を毟ってしまうことです。
ここから先は、自傷に関する僕自身の体験について触れます。
具体的な傷の描写も少しありますので、苦手な方はご注意ください。
自傷という言葉から、僕は以前、
「辛い自分に気づいてほしい」
「誰かに助けてほしい」
という、他者へのメッセージとしての行為をまず想像していました。
しかし実際には、自傷の理由はそんなに単純に分類できるものではないようです。
強い感情をなんとかやり過ごすため。
苦痛を別の感覚へ置き換えるため。
自分の感覚を取り戻すため。
自分を罰するため。
あるいは、言葉にできない苦しさを外へ表すため。
人によって違うでしょうし、一人の人間の中でも複数の理由が重なることがあるのでしょう。
そして僕の場合。
少なくとも、爪を毟る時の始まりはもっと拍子抜けするようなものです。
「なんか、気になる」
です。
僕はいくつか、感覚過敏や鈍麻を特性として自覚しています。
一番強く感じているのが視覚過敏です。
明るいと目が痛くなったり、頭痛が起きたり、ひどい時には急激な眠気に襲われたりします。
匂いも好き嫌いが激しい。
耳も、専門分野が音楽ということもあって、比較的細かいところまで気になってしまいます。
痛覚に関しては逆に鈍い方なのですが、触覚は少し繊細です。
トゲトゲ。
チクチク。
ピロピロ。
ザラザラ。
ポロポロ。
こういった感触を知覚すると、気になって仕方がありません。
つるつる。
すべすべ。
さらさら。
ふわふわ。
もこもこ。
できることなら、自分にとって好ましい状態にしてしまいたくなります。
それが一番顕著に現れるのが、自分の体です。
とりわけ「爪」。
以前の記事でも、僕には爪を毟る癖があることに触れたかと思います。
暇な時、なんとなく足の指先をいじっている。
「あれ、なんかささくれ立っているかも」
と気づく。
すると、その「ピロピロ」が気になって仕方がなくなります。
ちょっとだけ整えよう。
ここだけ取ろう。
ここまでなら大丈夫。
……そして気が済むまで、もとい「ピロピロ」がなくなるまで続けてしまう。
ピロピロがなくなる頃には爪の一部までなくなっていて、
「やってしまった」となります。
コンサータを服用していても、漫然とした不調などで仕事そのものには集中できない時があります。
そんな時、気づくと足の爪をいじってしまい、今度はそちらへ集中してしまう。
結果、退勤して帰路につく頃には、靴の中で足先が痛い。
「やってしまったなあ」
という諦めと共に駅へ向かいます。
……さて。
ようやくタイトル回収といきましょう。
『使えなくなった魔法』とは何ぞや。
それは、以前まで僕が使えていた、とある「魔法」のような感覚です。
以前の僕には、解離性同一性障害の症状がありました。
その頃の僕は、今振り返ると「意識や感覚を自分から切り離す」ということが、
随分起こりやすかったように思います。
例えば、痛かったり痒かったりしても、
「これは自分に起こっていることではない」
と考える。
あるいは、
「自分の体から『痛い』『痒い』という信号が来ているだけなのだから、
それを受け取らなければいい」
と考える。
すると、不思議なことに、痛みや痒みが急に遠くなったように感じることがありました。
本当に痛覚そのものが消えていたのか。
痛みへの注意が逸れていただけなのか。
解離によって身体感覚との距離が生じていたのか。
今の僕には分かりません。
当然、百発百中のテクニックでもありませんでした。
それでも僕にとって、
「どうしても辛かったら、ここから逃げられる」
という感覚があったことは確かです。
だから痛いことがあっても。
辛いことがあっても。
割と上手く切り離して、やりくりしていました。
そして今。
僕の解離性同一性障害の症状は、以前に比べてずっと鳴りを潜めています。
そうなってから初めて気づきました。
あの魔法が、使えなくなっている。
元から痛みには鈍い方ではあります。
しかし、
「痛いけれど、どうしても辛くなったら切り離せる」
のと、
「痛い。以上。逃げ場なし」
では、思っていた以上に違いました。
どうしてもこの痛みはキツいぞ、という時に、逃げ場を確保できない。
痛いものは痛い。
痒いものは痒い。
不快なものは不快。
ただそれを、自分の体に起きていることとして受け取らなければならない。
こんなに辛いことだったのか、と、生まれてから20年以上経った今になって気づきました。
RPGなどでは、一度覚えた魔法はずっと使える仕様になっていることが多いですね。
ゲームによっては、一度忘れた技だって思い出す方法があります。
しかし僕の「感覚を切り離す魔法」は、きっと思い出さない方がいいのでしょう。
否。
再び使えるようになってはいけないのだと思います。
もし以前のように、自分の体や感覚が簡単に
「自分のものではない」ように感じられる日が来たら。
僕にとってそれは、
「便利な能力が戻ってきた!」と喜ぶべきことではなく、
「ちょっと待て。今の自分、大丈夫か?」
と立ち止まるべき変化なのだと思います。
魔法を失った代わりに、僕は痛みから逃げにくくなりました。
これは困ります。
普通に困ります。
爪を毟った翌日に靴を履けば痛いし、
「昨日の僕、余計なことをしてくれたな」
とも思います。
でも。
その痛みがちゃんと「僕の痛み」としてこちらへ届くようになったこと自体は、
悪い変化ではないのかもしれません。
痛みを感じることが回復なのだ、と単純化するつもりはありません。
ただ少なくとも僕の場合は、
「逃げなくても自分の体の中にいられる時間が増えた」ことと、
「あの魔法が使えなくなった」ことは、
どこかで繋がっているように感じています。
だから今の目標は、
「もう一度、痛みを消せるようになる」
ではありません。
「そもそも爪を剥かない、毟らない」
です。
魔法がなくても困らないようにする。
こちらの方が、ずっと難しい。
でも、たぶん今の僕が覚えるべきなのは、そちらなのでしょう。
ゆっくり、まったり。
困りごととのモグラ叩きを続けながら、自分の課題を一つずつ解決していければ。
使えなくなった魔法を惜しみながらも、
「まあ、なくても生きていけるか」
と思える日が来れば。
少しだけ、楽になれるのかもしれません。


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